母親が隠れて頑張っている

 逃げ出そうとすれば庭木戸の傍に母親が隠れて頑張っている筈。それを突破して逃げる程のそれだけの勇気も出せぬので、お綾は縁側に手を支《つ》いたまま、モジモジして控えるのであった。`「まァ、何をその様に遠慮しているのじゃ。拙者は近く御当家に御召抱えと相成る身。さすれば早速又家内を迎えねば相成らぬで、それには誰彼と云おうより、お前に来て貰いたい真実の心」`「あれ、勿体ない。宿屋風情の娘が、御身分の御方様に……」`「いやいや、それは仮親を立てる法もある。まァその様な事を申さずと、嫁入り支度に就て、もっとも打解けて語り合おうではないか。さァ、さァ近く……はて、恐しい蚊の群じゃ」` 立って金三郎は撫川団扇《なつかわうちわ》バタバタと遣い散らし、軒の燈籠《とうろう》の火を先ず消した。次いで座敷の行燈《あんどん》の火も消した。庭の石燈籠の火のみが微かにこちらを照らすのであった。`「御免なされませ」`「はて、まだ好いではないか。もう少し話相手していてほしい」` 折も折とて京橋の東袂《ひがしたもと》近き所にて、屋島の謡曲《うたい》の声。それぞ源之丞のおとずれとお綾の心はそちらにも取られた。` 母親のお幸は、灯火の消えたので、安心して、店の方へ引下った。` この時、忽ち隠居所の中で。`「あれ――」という悲鳴。それはお綾の口からであった。` 続いて金三郎の甲走った声で。`「曲漢《くせもの》ッ」と呼《よば》わった。`「御免下さりませ。つい暗いので部屋を取違えて」と聴き馴《な》れぬ女の声が、室の一隅で起った時に、悲鳴に驚いて店の方からお幸が手燭を点けて急いで来た。

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